ラグビーワールドカップ2019日本大会の一次リーグですでに5トライを決めて日本を
決勝トーナメントに導いた立役者の一人、松島幸太朗選手。
松島選手は顔立ちや外国人記者のインタビューに英語で流暢に会話ができることからも
想像がつきますが父が外国籍のハーフです。
この記事では、松島幸太朗選手の両親の国籍と職業についてと両親の息子の育て方が
素晴らしいのでそちらについてみていきます。
松島幸太朗の父親と母親の国籍と職業は?
松島幸太朗選手の父はジンバブエ人で故ロドリック・ンゴロさんです。
母親は松島多恵子さんで、幸太朗選手は一人息子です。
父親のロドリックさんはジャーナリストで自身が内戦で差別された経験を持ち
南アフリカのアパルトヘイト(白人と非白人の人種隔離政策)に反対し権力にも
敢然と立ち向かう人だったといいます。

引用元:東京新聞
仕事は忙しくて家でも記事を書くことがあったそうです。
母親の多恵子さんはNGO(非政府組織)の研究員で両親に黙って単身で南アフリカに渡り
黒人居住区に滞在しアパルトヘイトなどの人権問題に取り組んできた志の高い方です。
若い女性の身で治安が悪く、ましてやアジア系人のカラードを差別する国で権力に反対する
運動は相当勇気がいることです。
二人は南アフリカの現地で出会って恋に落ち結婚します。
松島幸太朗さんが6歳まで南アフリカで暮らしており、幸太朗さんの出生地は南アフリカの
首都プレトリアなのでここに暮らしてたのではないでしょうか。
松島幸太朗の息子の育て方が凄い!
松島一家が日本に移り住んだのは幸太朗さんが6歳の小学校1年生の時ですね。
ジャーナリストの父は南アフリカへ赴くことも多かったですが、日本で数年、
親子3人で暮らしました。
父親のロドリックさんは、サッカーが好きで息子の幸太郎さんが小さい頃、一緒に公園で
球蹴りをしていたそうです。
小学校やサッカークラブに入るとの子どもから、褐色の肌をからかわれたそうです。
だが松島幸太朗さんは、教師やチームの指導者にやめるよう抗議したといいます。
「ノーならノー。意見を伝えることが大事」という母、多恵子さんの教えによるもの
だったそうです。

引用元:朝日新聞デジタル
※上は9歳のサッカーをしていた頃の写真
自他ともに認めるシャイな性格でしたが、必要な時は自分の考えを主張する子に育ちました。
日本に帰って用があり実家へ、小学校、中学校とかの写真とかいろんなもの見てたらめちゃくちゃ適当な感想で提出してた。
具体的に書けと先生に怒られる。#母笑う#明日も頑張っていきたいはさすがに笑った#全て適当な学生時代 pic.twitter.com/wUi68SCsJJ— kotaro matsushima (@kouta121315) May 30, 2016
松島幸太郎選手はプロのサッカー選手を夢見ますが、途中でやめてしまい
バレーボールに転向します。
しかし、母親の多恵子さんからすると真剣に打ち込んでいないように見えたのでしょう。
息子を中学1年の冬に南アフリカの父のもとで1年間留学をさせます。
ここで松島選手はその後の人生を変えるラグビーと出会います。
最初はボールを持った追いかけっこから始めて、ラグビーの小柄な選手が大きな選手に
対しても素早い動きで抜き去ったり、守っては体格のいい選手をタックルで倒せる
競技にのめりこんでいきます。
ロドリックさんは運動も一生懸命やらせましたが勉強には手を抜かせませんでした。
うるさいぐらい「勉強もしろ」と諭されていたそうです。
幸太朗さんを送り出した多恵子さんは
「南アフリカという異なった文化の空気を吸ってほしかったんです。
思いっ切り広い大地でスポーツをしてほしかった、という気持ちでした。
本人は戸惑ったと思うし親の勝手でしたけど南アフリカで生活することは
絶対プラスになると考えていました。」
と後年、回想しています。
1年の留学終えて帰国後、中学2年に東京のラグビースクール(早稲田クラブ)に入ります。
3年時は東京都スクール選抜の一員として花園ラグビー場で行われる冬の全国大会に出場。
優勝候補の大阪府中学校選抜との準決勝で、異次元の走りを連発して独走トライを重ねて
勝利しています。
高校はラグビーの強豪・桐蔭学園に入学し、1年時からレギュラーに定着し、
2年時には飛び級で高校日本代表入りします。

引用元:時事ドットコム
だが、高校2年の冬に、父ロドリックさんが急逝しています。
ショックで数日、部屋に閉じこもっていたそうです。
そして、当時の藤原監督は、高校日本代表の合宿がある時期だったが、辞退させることも
考えたといいます。
それを多恵子さんが「行かせてください」と伝え海外遠征に参加させています。
松島幸太朗選手は父の死に直面してなおラグビーを欲した自身と向き合ったことで
この競技を究めようと心に決めたそうです。
高校卒業後、海外でのプレーを意識し始めたのもこのころで、多恵子さんの
「行きなさい。自分がしっかり成長できるところで頑張ってきて」という言葉や
高校の先生、監督の勧めもあって、南アフリカでプロに挑むと決めました。
南アフリカ屈指の強豪クラブ「シャークス」のアカデミー(若手育成機関)に所属し
最初は世界トップ級の体とパワーを備える選手がひしめく中で、小柄な松島選手はけがが
絶えなかったそうです。
南アでの活躍もままならない中、1シーズンを終えて帰国後、20歳以下の日本代表から
声がかりますが、「おまえは(南アで)何も成し遂げていない」と高校時代の藤原監督から
突き放され「南アに戻ります」と告げて「シャークス」に戻ります。
努力が実り実績を重ね3シーズン目には南アの20歳以下代表からオファーがありました。
一度南アの代表になってしまうと、日本代表の資格を失ってしまうので辞退しています。
2013年に帰国し、サントリーに加入します。
2015年W杯は、彼の名を世界に知らしめる大会となりました。
Hats off to @JRFURugby and #beastie @kouta121315 for a magnificent World Cup. Superb effort throughout #RWC15! pic.twitter.com/PRZGF2raxR
— Easts Rugby Club (@EastsRugby_) October 11, 2015
その後、2015年にワラタス、2016年にはレベルズ(ともに豪州)でプレーしています。
ワールドカップ2019での大活躍は世界から注目を集めていますね!
Kotaro Matsushima is fast emerging as one of the biggest stars of the global game 💯🔥
Electric, elusive and powerful ⚡️💪@JRFURugby #RWC2019 #JPNvSAM pic.twitter.com/4u5UIetCNs
— Rugby World Cup (@rugbyworldcup) October 6, 2019
ゴルフが趣味とか。時々打ちっぱなしいくのかな?
最近行った打ちっ放し!
リフレッシュにはもってこい!😎
少し良くなってきたー!⛳️#しょっぱなボール後ろに飛んだ #みんなに引かれる #自分でもびっくりした #趣味は #ゴルフ #映画鑑賞 pic.twitter.com/XMzEYGiGEb— kotaro matsushima (@kouta121315) November 6, 2015
まとめ
松島幸太朗選手の父はジンバブエ人で母は日本人です。
父はジャーナリスト、母はNGO(非政府組織)の研究員です。
両親の教育方針は
- 自分の意見を伝えることが大事
- 運動も一生懸命やるが勉強も手を抜かない
- 異なった文化の空気に触れる
- 自身で道を切り開く
- 礼儀を忘れない
(高校3年間校長先生に年賀状を送っています。)
松島幸太朗選手のトライを決勝トーナメントでも見せてほしいですね。
これからも応援します!!
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